午年〜『子午線』の先に見えてくるモノとは?〜

皆様、こんにちは。本日は1/1(木)。
あけましておめでとうございます。今年は午年です。本日は…2026年の始まり、午年に見た私の初夢から感じた印象を…。
それは本当に不思議な映像でした。ただ一本の線が、静かに大地を貫いている情景でした…。今思うと…『子午線』だったのではないか…とも思います。
子午線とは、地球上では南北両極を結ぶ線(経線)を指し、天球上では観測者の北極・天頂・天の南極を結ぶ大きな円を指すと言われております。この名称は、昔の方角の呼び方で北を「子」、南を「午」としたことに由来しているそうです。また、太陽が観測地点の子午線を通過する時を「南中」と呼び、この時刻がその場所での『正午』となる事から…子午線は、時刻の『標準時』を定める上でも重要な役割を果たしていると言われております。
しかしながら…『正午』を告げるその線は、世界の時を測る基準でありながら、誰かの人生の正しさを測ることはできない存在です。人は皆、同じ時刻を生きているようでいて、決して同じ時間を生きてはおりません。その事実を、夢は言葉なく示しているようにも感じました。

「人間万事塞翁が馬」という格言があります。
幸不幸は容易に定まらず、今の出来事が後にどのように転じるのか、人には分からないという古典の智慧が詰まった言葉とも言えるのではないでしょうか?。午年にあたり、馬は前へ進む象徴として語られがちです。ですが同時に、馬は制御しきれない存在でもあります。速く、強く、時に人の思惑を超えて走ります。人は日々、善悪や正誤を判断しながら生きています。しかし、その判断が「塞翁が馬」であることを、過去の歴史において、私たちは何度も後になって思い知らされて来ております。

AIは、『子午線』のように明確な基準を持ちます。大量のデータから確率を導き、最適解を提示する。そこには迷いも、ためらいもありません。一方、人間の思考は、『正午』の影のように揺れ動きます。感情、記憶、立場、恐れ、希望――それらが複雑に交錯します。
近年、AIは驚くほど速く、正確に「答え」を導き出しています。大量の情報を処理し、過去の事例を学習し、最適解を提示しております。そこに迷いはなく、感情も揺らぎもありません。一方で、人間の考えはどうでしょうか?迷い、矛盾し、感情に左右され、時に合理性を欠きます。ですが、その不完全さの中にこそ、人間が人間である理由があるとも言えるのではないでしょうか?AIは「正しさ」を計算できますが、「痛み」を感じることはできません。人間は正しさを誤ることがありますが、痛みの中で学び、悔い、赦しを考えることができます。
例えば…死刑という制度は、究極の判断を人に委ねています。しかし、もしその判断が誤っていたとしたら、時間は巻き戻りません。冤罪は制度の誤りであると同時に、人の「思い込み」が生む悲劇でもあります。そして、その先に残されるのは、被害者遺族の感情、加害者とされた者の家族の苦悩、そして社会全体の沈黙です。恩赦とは、正しさを否定する行為ではありません。むしろ、「正しさだけでは人を救えない」という認識の表れとも言えるのではないでしょうか?。
『馬耳東風』という格言があります。辞書を紐解くと…聞く耳を持たず、言葉が通り過ぎていくさま…とあります。忙しさや効率の名の下に、私たちは知らず知らずのうちに、この態度を選んでいないでしょうか?遺族の声、沈黙、怒り、涙。それらは数値化できず、結論を急ぐ社会の中では、しばしば置き去りにされます。聞こえないふりをすることは楽です。ですが、その先に残るのは、癒えない断絶であります。
翻って…私が仕事としている介護に当てはめてみると…認知症状を抱える方々の時間は、『子午線』に沿っては進みません。過去と現在とが入り混じり、同じ言葉が繰り返されます。介護者は、時計の針が進む現実と、止まったままの相手の時間の狭間で揺れ動きます。その苦悩は、単なる疲労ではなく、「共有できなくなっていく時間」への喪失感とも言えるのではないでしょうか?
それでも、完全に失われるものばかりではありません。視線、手の温もり、声の調子。理屈では説明できないが、確かに存在する「人としての核」が…今も確かに存在しているのではないでしょうか?

古典文学は、完成された答えを与えてはくれません。むしろ、迷い、無常、哀しみ、そしてそれを抱えたまま生きる姿を描き続けております。「明鏡止水」とは、感情を消すことではありません。揺らぎを否定せず、それを映しながらも、飲み込まれない心の在り方を指すのではないでしょうか?。自然は常に変化し、定点など存在しません。
それでも人は、正午という基準を定め、時を測ってきました。それは、混沌の中で生き延びるための知恵だったのではないでしょうか?そこにはAIに似てはいますが、AIではなし得ない…面々と貫かれたDNAの生存戦略の跡が見えるのではないでしょうか?

『気付き』とは、理解した瞬間ではなく、むしろ「分からなさを引き受ける覚悟」が芽生えた時に訪れます。『寄り添い』とは、相手を説得することでも、導くことでもありません。2025年11/18投稿のブログの最後に私は…『紅葉が散り、冬に向かう静かな季節は、寄り添う心が最も深まり、自分自身も整えられていく時期でもあります。遠い日の歌人達もそれぞれは…何の得手不得手もない人に違いありません。そこにあるのは…ただ目の前の情緒豊かな情景に静かに耳を澄ます心得を持っていたに過ぎないのではないでしょうか?しかし…そこには現代人が失いつつある心の有り様があるような気がしてなりません。それは…『自分自身が整えられていく時期』を逃している事にほかならないのではないでしょうか?。その様な自らの課題が介護や支援を行っている方々すべての人の内面に宿ってはおりませんでしょうか?目の前の美しい様々な自然に触れる時に少しでも…その様な課題に目を向ける機会がありましたら…幸いでございます』と帰結しております。これらは…同じ子午線に立ち、異なる時間を生きていることを認める覚悟を持つとも言い換える事ができるのではないでしょうか?

この文章を、2026年の年末に読み返したとき…私たちはどんな1年を生きて来たと思えるのでしょうか?『塞翁が馬』の連続の中で、『馬耳東風』にならずに、どれほど耳を傾けてきたと言えるのでしょうか?「この1年、私達はどれほど揺らぎを許してきただろうか」「どれほど他者の沈黙に耳を澄ませてきただろうか」…そう自問できたなら、この1年は決して無駄ではなかったと思えるはずではないでしょうか?
正午という基準に縛られすぎず、それぞれの時間を生きる人に、どれほど寄り添えるでしょうか?

2025年12/16投稿のブログの中で私は…
『この1年の出来事や学びは、答えを提示するためにあったのではなく、自分自身に問いを投げかけるために積み重ねられてきたのだと…。気付きや寄り添い、明鏡止水の境地、身体と心の声、季節や古典文学との対話…それらはすべて、読む者それぞれの内省を促し、日常の中に潜んでいた小さな違和感や見過ごされてきた課題を想起させ…これまで一つしか見えていなかった道の先に、別の可能性が静かに存在していることを示してくれる様にも感じました。内省とは立ち止まることではなく、より深く、より広く生きるための助走ではないでしょうか?課題に気付くことは、未熟さを責めることではなく、未来を選び直す自由を取り戻す事ではないでしょうか?』と述べています。

選び直した未来の先に、静かな明鏡止水の瞬間が誰の心の側にもそっと寄り添い続けている…そんな日がある事を願って…。