夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

皆様こんにちは。本日は6/17(水)。6/2(火)のブログで述べたように…6月は旧暦では…『水無月』とも言われます。字だけ見ると「水が無い月」と読めますが、旧暦では梅雨明けに近い頃を含み、田に水を張る季節でもあります。私事になりますが…仕事で農業をされている方をご支援する事もございます。そのような時に日々のお米や野菜が大変な努力をされて、刈り取られ、毎日の私達の食卓に上がる事を拝聴する機会がございました。そこには…土壌の作り方の難しさと天からの授かりものである水を活かす方法を教えて頂く機会もありました。そのような時に痛切に感じる事は日々の何気ないご縁を当たり前の事と受け取るのではなく、周囲への感謝と私達を取り巻く、この大自然から私達が学ぶべき事は何か?常に意識する事が大事なのではないかと思います。そこで本日は私が心に残っている古典の中から下記の2点を挙げて…日々の認知症状に悩まれているご利用者様、及びご家族様に…何かしらの明日を支えるキッカケとして頂けましたらと思い、筆を取りました。
まず、1点目の古典として挙げるのが下記の、松尾芭蕉の一句です。
五月雨を 集めて早し 最上川
(松尾芭蕉『おくのほそ道』)
有名な俳句なので、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。「五月雨」は旧暦五月ごろの長雨、つまり今の梅雨に近い雨です。降り続いた雨が山や野から川へ集まり、最上川の流れを速くしている様子を詠んだとされています。もともとは「涼し」と詠まれ、のちに『おくのほそ道』では「早し」と推敲されたとされています。雨がただ降っているのではなく、見えない場所で集まり、勢いとなって現れる。そこに、この句の深さがあるのでは…と述べる見解もございます。
現代の生活に置き換えると、これは「日々の小さな積み重ねが、ある日大きな流れになる」という教えとも言えるのではないでしょうか?たとえば、朝起きて窓を開ける。コップ一杯の水を飲む。洗濯物を天気に合わせて干す。玄関の靴をそろえる。家族に「行ってらっしゃい」と声をかける。一つ一つは小さなことです。しかし、それが一日の流れを整え、家庭の空気を整え、心の川の流れを穏やかにしているのでは…と私には感じられます。反対に、忙しさの中で小さな疲れを放置すると、それもまた「集まって」流れになります。睡眠不足、食事の乱れ、言いそびれた不満、片付かない部屋、スマートフォンの見過ぎ。これらは一つだけなら大きな問題ではありませんが、積み重なると心身の川を濁らせます。芭蕉の句は、「流れが速くなってから慌てるのではなく、雨粒の段階で気づきなさい」と教えてくれているのではないでしょうか?
介護の現場でも同じです。認知症状に悩むご利用者様やご家族様にとって、生活は一つの大きな川です。失行、失認、失語といった症状は、決して「何も分からなくなった」という単純な話ではありません。厚生労働省の資料でも、失行・失認・失語などは認知症の中核症状に含まれる認知障害として説明されています。 以下、『失行』『失認』『失語』の例を確認しながらその点を見て参りたいと思います。
『失行』とは、手足の麻痺が強くないのに、いつもの動作の手順が分からなくなる状態です。たとえば、歯ブラシを持っているのに、歯磨き粉をつける、口に入れる、磨く、すすぐ、という流れがつながりにくくなります。本人は怠けているのではありません。脳の中で「次に何をするか」という動作の設計図がつながりにくくなっているのです。この時、身体の血液の流れや神経の感じ方で考えると、手そのものには血液が流れ、皮膚の感覚も残っている場合があります。歯ブラシの硬さ、冷たさ、持っている感覚はある。しかし、脳の中で「この感覚をどう動作に結びつけるか」という神経の連絡が乱れます。つまり、川の水は流れているのに、途中の水路の標識が見えにくくなっているような状態とも言えるのではないでしょうか?
これを身近な生活の具体例で考えると…言葉で長く説明するより、動作を小さく分けることが大切なのではないかと感じます。「歯を磨いてください」ではなく、「まず歯ブラシを持ちましょう」「次にここに歯磨き粉を少し出しましょう」「一緒に口へ運びましょう」等と…一粒ずつ雨を集めるように支えます。日々の忙しさの中で、1つひとつを確認する事は確かに大変な事ではあります。しかし介護の基本は生活習慣の見直しを行う事により、ご利用者様が生活の中で感じておられる事を1つひとつ解決して行く事であり、その為に必要な事は…ご利用者様がどの段階で生活しづらくなっているかを可能な限り『寄り添う』事。芭蕉の句でいえば、いきなり大河を渡らせるのではなく、小さな水の流れを一緒にたどる事が大切なのではないかと感じます。
『失認』とは、目や耳などの感覚器は働いているのに、それが何であるか分かりにくくなる状態です。たとえば、目の前に湯のみが見えているのに、それが「お茶を飲むもの」だと結びつきにくい。家族の顔を見ても、誰なのか分かりにくいこともあります。これは視力だけの問題ではなく、見た情報を脳の中で意味づける働きが弱くなるために起こります。厚生労働省の資料でも、失認は感覚機能が保たれていても認識が難しくなる状態として説明されています。 この場合、身体の血液は目や耳、手足にも流れています。視覚情報も神経を通って脳に届いていることがあります。しかし、その情報を「これは何か」「どう使うか」「自分にとってどんな意味があるか」と整理する脳のネットワークが弱くなります。目に映っているのに、心の中の名前札が外れてしまうようなものです。生活の具体例で言えば、食卓に箸、スプーン、湯のみ、薬、ティッシュを一度に並べると、本人には情報が多すぎて混乱することがあります。そこで、今使うものだけを目の前に置く。湯のみなら実際に手に持ってもらい、「温かいですね。お茶です」と、触覚・温度・言葉を合わせて伝える。写真だけではなく、声、香り、手触りを重ねる。これは、最上川に流れ込む支流を一つずつ整えるような関わりです。
『失語』とは、言葉を話す、聞いて理解する、読む、書くといった言語の働きが難しくなる状態です。失語は、脳の言語を担う領域の損傷によって起こり、話すことだけでなく、理解、読み書きにも影響することがあります。多くの場合、左脳の言語領域が関係すると説明されています。 しかし、これらは、単に言葉が出てこないだけで、心が空っぽになったわけではありません。むしろ、言いたいことは胸の中にあるのに、言葉という出口にたどり着けず苦しんでいることがあります。血液の流れで言えば、脳は酸素や栄養を受け取りながら働いていますが、脳梗塞や変性などで言語に関わる神経回路が傷つくと、「思い」と「言葉」の橋が渡りにくくなります。神経の感じ方としては、周囲の声や表情、雰囲気は感じ取っていても、それを言葉として整理したり、自分の言葉で返したりすることが難しくなります。
これを身近な生活の具体例で考えると…「答えを急がせない」事が大切なのではないかと感じます。即ち、ご家族はつい「何が言いたいの?」「違うでしょ」「ちゃんと言って」と迫る事がございます。すると、ご本人の中では川の流れがさらに乱れます。代わりに、「お茶ですか?」「寒いですか?」「トイレですか?」と選択肢を少なくする。言葉が出ない時は、指差し、うなずき、表情、手振りを言葉の代わりとして尊重する。沈黙も会話の一部として待つ。これが、失語の方にとっての水路を広げる関わりではないかと感じます。

次に、古典の中から学ぶべき短歌として清原深養父の歌を挙げたいと思います。即ち…
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月宿るらむ
(清原深養父『古今和歌集』夏・百人一首三十六番)
清原深養父は、平安時代中期の貴族・歌人で、清少納言の曽祖父にあたる人物とされています。『古今和歌集』などに歌が採られ、琴にも秀で、晩年は京都大原近くに寺を建てて住んだとも伝わっております。 上記の短歌の意味は、「夏の夜は、まだ宵の口だと思っているうちに明けてしまった。月は雲のどのあたりに宿っているのだろうか」というものです。夏の夜の短さ、そして見えない月を思いやる心が詠まれているとされます。 この歌の良さは、「見えないものを、無いと決めつけない」ところにあると感じます。月が見えない。けれど、月は消えたのではない。雲の向こうに宿っているのだろう、と想像する繊細さが大切なのではないでしょうか?
これは、忙しい現代人にとっても、とても大切な感覚ではないかと感じます。たとえば、家族が不機嫌そうに見える。返事がそっけない。職場の人が冷たい。そんな時、私たちはすぐに「嫌われた」「怒っている」「分かってくれない」と決めつけがちです。しかし、本当は疲れているだけかもしれない。眠れていないのかもしれない。何か言えない事情を抱えているのかもしれない。月が雲に隠れているだけかもしれないのです。
現代の具体的な生活として考えると…朝の一言が変わります。「なんでそんな顔をしているの?」ではなく、「少し疲れている?」と聞く。認知症の方が同じことを何度も尋ねた時も、「さっき言ったでしょ」ではなく、「不安なんですね」と受け止める。見えている言動だけで判断せず、その奥にある月を探す。これが、清原深養父の歌が現代にも残してくれる知恵ではないでしょうか?
認知症状のある方にも、この精神は大切ではないかと感じます。『失行』の方が服をうまく着られない時、見えているのは「できない姿」です。しかし、雲の向こうには「自分でやりたい」「恥ずかしい」「急かされたくない」という月があります。そこで家族は、全部を奪って着せるのではなく、袖を通す向きをそっと整え、「ここに右手を入れてみましょう」と支える。本人ができる部分を残すことで、自尊心という月を守ることができるのではないでしょうか?
『失認』の方が家族の顔を分からなくなった時、家族は深く傷つきます。「私のことも分からないのか」と思うのは自然なことです。しかし、本人の中から愛情が消えたとは限りません。顔と名前の結びつきが雲に隠れているだけかもしれません。だから、「私、娘の○○だよ。今日は紫陽花がきれいだったから持ってきたよ」と、名前、関係、季節、香り、声を添える。記憶を責めるのではなく、記憶が戻りやすい道を作る事こそ大事なのではないでしょうか?
『失語』の方が言葉を返せない時も同じです。返事がないから何も感じていないのではありません。月は雲の向こうにあります。手を握ると握り返す。好きな歌を流すと表情がやわらぐ。昔の写真に目が止まる。そこに言葉以前の反応があります。会話とは、文章だけではありません。目線、呼吸、手の温度、沈黙の長さも、立派なコミュニケーションではないでしょうか?
ここで、血液の流れと神経の感じ方を、もう少し生活感覚で整理します。脳は血液から酸素と栄養を受け取り、神経細胞同士が電気信号や化学物質で連絡を取り合うことで、見る、聞く、考える、動く、話すという働きをしています。けれど、認知症や脳血管障害などで脳の一部の働きやネットワークが弱くなると、「身体は感じているのに、意味づけや手順化や言語化が難しい」ということが起こります。『失行』では、手足の感覚や力はある程度残っていても、動作の順番を組み立てる神経の流れが滞ります。『失認』では、目や耳から情報が入っても、それを「これは湯のみ」「これは娘の顔」と結びつける流れが乱れます。『失語』では、思いがあっても、それを言葉に変換する流れ、または相手の言葉を意味として受け取る流れが弱くなります。どれも「本人の心が失われた」というより、「脳内の橋や水路が通りにくくなった」と考える方が、ずっと本人に優しい理解ではないでしょうか?
ご家族様が大切なご利用者様に寄り添う最初の一歩目は…無理に大きな川を渡らせることではありません。小さな支流を整えることです。声を低めに、ゆっくり話す。物を一つずつ見せる。動作を一工程ずつ区切る。言葉だけでなく、写真、実物、手触り、匂い、音を使う。失敗を責めず、「ここまでできましたね」と流れの途中を認める。これらはどれも、古典の精神とつながっています。
芭蕉の句は、「小さな雨粒が集まり、大きな流れになる」ことを教えます。介護では、小さな声かけ、小さな待つ時間、小さな成功体験が、本人の安心という川になります。
清原深養父の歌は、「見えない月を、無いと決めつけない」ことを教えます。介護では、言葉が出ない、顔が分からない、動作ができない、その奥にも、その人らしさが宿っていると信じる力になります。
6月は雨の季節です。雨の日は、外出が面倒になり、洗濯物も乾きにくく、気分も沈みがちになります。しかし、雨は田を潤し、草木を育て、川を満たします。人の暮らしも同じではないでしょうか?忙しさ、不安、介護の悩み、言葉にならない疲れ。それらも、見方を変えれば、明日を生きる知恵を育てる水になり得るのではないでしょうか?
『水無月』の古典は…脈々と私たちにこう語りかけているようです。
目の前の流れだけを見て慌てなくてよい。
見えない月を、消えたと決めつけなくてよい。
小さな一滴を整えれば、暮らしはまた流れ出します。
雲の向こうに、その人らしさは、今も静かに宿っています。

多くの生き辛さを味わいながらも、日々真面目に努力されているご利用者様やご家族様に…何かしらの明日を生きるヒントになればと…本日は2つの古典を挙げてみました。皆様も日々感じておられます、生きるヒントがございましたら…教えて頂けましたら幸いです。