皆様、こんにちは。本日は2026年7月1日、水曜日です。
2026年も、気が付けば半分を過ぎてしまいました。元旦に見た初夢の中で、私は一本の線が静かに大地を貫いているような、不思議な情景を見ました。1/1のブログにおいてもその事を述べております。そこで述べております「子午線」。北と南を結び、時を測る基準となる線。しかし、その線は世界の時刻を定めることはできても、人それぞれの人生の意味や、心の揺らぎまでは測ることができません。
半年が過ぎた今、改めて思うのは、人の暮らしとは、一直線に進むものではないということです。時計の針は正確に進みます。暦もまた、一日一日を間違えることなく刻んでいきます。しかし、私たちの心や身体、家族との関係、仕事の中で出会う方々との時間は、決してそのように整然とは進みません。時に立ち止まり、時に戻り、時に乱れ、また何かのきっかけで静かに流れ始めます。
自然を見ても、それは同じです。春に芽吹いた草木は、初夏の雨を受け、夏の強い光に向かい、やがて秋の実りへと向かっていきます。そこには、ただ前へ進むだけではない「循環」があります。雨が降り、土に染み込み、川となり、海へ流れ、また雲となって空へ戻る。水の流れは、決して一度きりの直線ではありません。巡り、形を変え、時に濁り、時に澄みながら、命を支え続けています。
人の心もまた、水の流れに似ているのではないでしょうか。心が穏やかな時、私たちは物事をゆっくり受け止めることができます。相手の言葉の奥にある不安や、沈黙の中にある小さな願いにも、少しだけ耳を澄ませることができます。しかし、心の乱れが大きくなると、目の前の出来事は必要以上に鋭く見え、相手の言葉は攻撃のように感じられ、未来は閉ざされたもののように思えてしまいます。
怒り、不安、焦り、悲しみ。これらは決して悪い感情ではありません。むしろ、人が人として生きているからこそ生じる自然な反応です。ただ、その感情に飲み込まれた時、私たちは自分自身の本当の願いを見失ってしまうことがあります。
例えば…仏教でいう煩悩の中に「瞋」という言葉があります。これは怒りや憎しみの心を指すと言われます。また「痴」とは、物事をありのままに見られず、迷いや無知の中に閉じ込められてしまう状態を指すとも言われます。瞋も痴も、決して遠い世界の言葉ではありません。日々の暮らしの中で、私たちは小さな怒りに心を曇らせ、小さな思い込みによって相手を決めつけてしまうことがあります。
介護の現場でも、家庭の中でも、職場の人間関係でも、それは静かに起こっています。例えば、認知症状を抱える方と向き合う時、こちらの常識や時間感覚だけで相手を見てしまうと、そこには大きなすれ違いが生まれます。失行により、頭では分かっているはずの動作がうまくできない。失認により、目の前にあるものが何なのか認識しづらくなる。失語により、伝えたい気持ちはあるのに、言葉として形にできなくなる。これらは単なる「できないこと」ではありません。その方の中にある世界の見え方、感じ方、時間の流れ方が変化しているということでもあります。
介護する家族にとって、それはとても苦しいことです。昨日までできていたことができなくなる。何度説明しても伝わらない。同じ話が繰り返される。優しくしたいと思っているのに、つい強い言葉が出てしまう。その後で自分を責める。こうした経験は、単なる疲労ではなく、「共有できていたはずの時間が、少しずつ別々の流れになっていく悲しみ」でもあるのではないでしょうか。
けれども、そのような時こそ、私たちは「感情と意味」を分けて考える必要があるのではないかと感じております。怒りが湧いたからといって、その人を大切に思っていないわけではありません。悲しくなるからといって、介護から逃げたいだけでもありません。感情は心の表面に生じる波であり、その奥には、相手を失いたくない、分かり合いたい、少しでも穏やかな時間を取り戻したいという意味が隠れていることがあります。
人の脳の働きに目を向けると、前頭前野は考えたり、判断したり、感情を調整したりする役割を担っていると言われます。扁桃体は不安や恐怖、怒りなどの情動に深く関わり、海馬は記憶と関係しています。強いストレスや不安が続くと、扁桃体が過敏になり、前頭前野による冷静な判断が働きにくくなることがあります。また、海馬に関わる記憶の働きも、心身の状態によって影響を受けます。
これは、認知症状を抱える方だけの問題ではありません。介護する側、支える家族、仕事に追われる人、日々の生活に不安を抱える人、誰にでも起こり得ることです。認知的負荷が高まると、人は目の前のことを処理するだけで精一杯になります。すると、相手の事情を想像する余裕も、自分の感情を振り返る余裕も失われていきます。
だからこそ、家族の支えは大きな意味を持つものだと感じております。支えとは、何か特別な解決策を示すことだけではありません。むしろ、「あなたは一人ではない」と静かに伝わる関わりそのものが、乱れた心の水面を少しずつ落ち着かせていくことがあります。言葉にならない不安を否定せず、すぐに正論で返さず、ただ横に座る。お茶を淹れる。昔の話を一緒にする。子供の頃の風景を思い出す。そうした何気ない時間が、人の心に深い回復をもたらすことがあります。
『子供の頃の風景』と言えば…不思議なものです。田んぼの水面に映る空、夕方の風、母の声、父の背中、食卓の匂い、夏休みの蝉の声、冬の朝の冷たい空気。そうした記憶は、普段は忘れているようでいて、心の奥に静かに残っています。認知症状が進んだ方でも、最近のことは思い出せなくても、子供の頃の歌や風景、両親の教えをふと語られることがあります。そこには、その方が長い人生の中で大切にしてきた「意味」が宿っているのではないでしょうか。
『両親の教え』と言えば…時間を超えて私たちの中に残るものだと感じております。はっきりとした言葉として覚えている場合もあれば、背中で教えられたものとして残っている場合もあります。人に迷惑をかけないこと。約束を守ること。弱い立場の人を見捨てないこと。自然を粗末にしないこと。食べ物を大切にすること。目上の人を敬うこと。こうした教えは、時に古く感じられるかもしれません。しかし、社会が速くなり、効率が重んじられる時代だからこそ、そこには人が人として暮らすための深い知恵が含まれているようにも思います。
身体もまた、自然の循環の中にあります。血液は心臓から送り出され、全身を巡り、各臓器へ酸素や栄養を届け、不要なものを回収しながら戻ってきます。腎臓は血液を濾過し、身体に必要な水分や電解質のバランスを整えています。糖尿病では血糖の調整がうまくいかなくなり、血管や神経、腎臓などに負担が及ぶことがあります。高血圧は血管に常に強い圧力をかけ、心臓、脳、腎臓に影響を与えることがあります。
血液の流れ方と各臓器との関係を考えると、人の身体は決して部分だけで成り立っているのではないことが分かります。腎臓疾患があれば、むくみや倦怠感、血圧の変動につながることがあります。糖尿病があれば、傷が治りにくくなったり、神経障害が出たりすることもあります。高血圧が続けば、脳血管障害や心疾患のリスクも高まります。つまり、一つの臓器の不調は、全身の循環に影響し、さらには気分や意欲、生活の質にも関わってきます。
これは人間関係にも似ています。家族の中で一人が苦しんでいる時、その苦しみはその人だけに閉じているわけではありません。介護する人の睡眠が乱れ、仕事に影響し、兄弟姉妹の関係に緊張が生まれ、遠方に住む家族が罪悪感を抱くこともあります。一人の不調は、家族全体の循環に影響します。だからこそ、誰か一人がすべてを背負うのではなく、役割を分かち合い、声を掛け合い、必要な支援につなげていくことが大切になるのではないでしょうか。
それは「寄り添い」という言葉の本質にも関わります。寄り添いとは、相手と同じ気持ちになることではありません。相手の苦しみを完全に理解できると思い込むことでもありません。むしろ、完全には分からないという前提に立ちながら、それでも相手の時間のそばに立とうとする姿勢ではないでしょうか。失語により言葉が出ない方の沈黙に、こちらの焦りを押しつけない。失認により不安になっている方に、理屈だけで説明し続けない。失行により動作が進まない方に、急かすのではなく、その人の身体が思い出す時間を待つ。そこにこそ、介護における寄り添いの深さがあるように感じます。
そして、その寄り添いを支えるものが「気付き」です。気付きとは、何かを知識として理解することだけではありません。むしろ、自分が今まで見落としていたものに、ふと立ち止まることです。相手の困った行動の奥にある不安に気付くこと。自分の怒りの奥にある悲しみに気付くこと。家族の沈黙の奥にある疲れに気付くこと。自然の中で当たり前のように流れている水や風や光が、実は自分の心を整えてくれていたことに気付くこと。そうした小さな気付きの積み重ねが、未来の選択肢を静かに広げていくのではないでしょうか。
また…自己認知の変化もまた、今年を振り返る上で大切な視点だと感じております。人は、自分のことを分かっているようで、実はなかなか分かっていません。自分は冷静な人間だと思っていても、いざ家族の問題になると感情が先に立つことがあります。自分は優しい人間だと思っていても、疲労が重なると相手を責めてしまうことがあります。自分は正しい判断をしていると思っていても、後になってみると、恐れや世間体に動かされていたことに気付くこともあります。
けれども、それは恥ずべきことではありません。自己認知が変化するということは、自分の未熟さを責めるためではなく、これからの生き方を選び直すための入口なのだと思います。過去の自分を否定するのではなく、「あの時の自分には、あれが精一杯だった」と受け止める。そして、「これからは、もう少し違う関わり方ができるかもしれない」と未来の選択肢を見つめ直す。そこに、人が変わっていく可能性があります。
更に…明鏡止水という言葉があります。曇りのない鏡と、静かに澄んだ水のような心を指す言葉です。しかし、これは感情を消し去ることではないと思います。怒りも悲しみも不安も、なかったことにするのではありません。水面に波が立つことを否定せず、それでもその波にすべてを奪われない心のあり方。それが明鏡止水に近いのではないでしょうか。
自然の水は、濁ることがあります。雨が降れば川は増水し、土を巻き込み、激しく流れることもあります。しかし、やがて時間が経つと、水はまた澄んでいきます。人の心も同じです。乱れること自体が悪いのではありません。大切なのは、乱れた自分を責め続けることではなく、なぜ乱れたのか、その奥に何があったのかを静かに見つめることではないでしょうか。
2026年の後半に向かう今、私たちはどのような日々を選ぶことができるのでしょうか。
ただ忙しさに流されるだけの半年にすることもできます。効率や結果だけを追い、目の前の人の沈黙や小さな違和感を見過ごすこともできます。あるいは、少しだけ立ち止まり、自分の心の乱れや、家族の疲れ、利用者様の不安、自然の移ろいに耳を澄ませる半年にすることもできます。
未来の選択肢は、いつも大きな決断として現れるわけではありません。むしろ、日々の小さな場面に現れます。強い言葉を返す代わりに、一呼吸置くこと。できないことを責める代わりに、できていることを見つけること。相手の話を遮る代わりに、最後まで聞くこと。忙しい朝に空を見上げること。水を一杯、ゆっくり飲むこと。両親から受け継いだ教えを、今の暮らしの中でどう生かすかを考えること。子供の頃の風景を思い出し、自分がどこから来たのかを静かに確かめること。
その一つ一つが、人生の流れを少しずつ変えていくのではないでしょうか。
そして、やがて2026年12月31日を迎えます。その夜、除夜の鐘が鳴ります。百八つの鐘の音は、人の煩悩を一つずつ鎮めるものとも言われます。瞋の怒り、痴の迷い。その他にも、執着、不安、嫉妬、後悔、恐れ、焦り。人の心には、数えきれないほどの揺らぎがあります。
けれども、除夜の鐘は、私たちを責めるために鳴るのではないと思います。むしろ、「今年もよく迷いましたね」「よく怒り、よく悲しみ、それでも今日まで歩いて来ましたね」と、静かに受け止めてくれる音のようにも感じます。鐘の響きは、過去を消すものではありません。過ぎた日々を抱えたまま、新しい年へ歩み出すための区切りなのではないでしょうか。
その時、私たちはこの一年をどのように振り返るのでしょうか。
腎臓疾患や糖尿病、高血圧と向き合いながら、身体の声にどれだけ耳を澄ませてきたでしょうか。血液の流れ方と各臓器との関係を思いながら、自分の身体を単なる道具ではなく、共に生きる存在として大切にしてきたでしょうか。認知症状を抱える方の失行、失認、失語の奥にある不安や尊厳に、どれだけ目を向けてきたでしょうか。家族の支えを当たり前と思わず、その疲れや沈黙にも気付くことができたでしょうか。
感情に振り回された日もあったはずです。意味を見失った日もあったはずです。心の乱れによって、誰かに強く当たってしまった日もあったかもしれません。認知的負荷に押しつぶされそうになり、自分のことで精一杯だった日もあったかもしれません。
それでも、その一つ一つを振り返った時に、「あの出来事があったから、少しだけ人の痛みに気付けるようになった」「あの迷いがあったから、別の未来の選択肢を考えることができた」「あの家族の言葉があったから、自分は支えられていたのだと分かった」と思えるなら、その一年は決して無駄ではなかったのではないでしょうか。
人生は、子午線のように一本の線で測れるものではありません。正午という基準があっても、人の時間はそれぞれ違います。認知症状を抱える方には、その方の時間があります。介護する家族には、家族の時間があります。病と向き合う人には、身体の声に合わせた時間があります。子供の頃の風景を胸に生きる人には、過去と現在が重なり合う時間があります。
私たちにできることは、その時間を無理に一つにそろえることではありません。むしろ、それぞれの時間が違うことを認めながら、同じ場所で、少しだけ心を重ねることではないでしょうか。
自然は巡ります。水は流れます。血液は身体を巡り、記憶は心の奥で形を変え、家族の言葉は時を越えて残ります。怒りも迷いも、いつか気付きへと変わることがあります。悲しみもまた、誰かに寄り添う力へと変わることがあります。
これから先、半年が過ぎ、除夜の鐘を聞きながらも…
この一年、完全ではなかった。
迷いもあった。
心の乱れもあった。
怒りも、後悔も、分からなさもあった。
けれども、その中で自然に目を向け、水の流れに耳を澄ませ、身体の声を聞き、家族の支えに気付き、認知症状を抱える方の世界に少しでも寄り添おうとしてきた。自分自身の変化を恐れず、未来の選択肢を閉ざさず、明鏡止水の心を求めながら、今日まで歩いてきた。
そう振り返ることができるなら、2026年という一年は、単なる時間の経過ではなく、意味ある日々の積み重ねであったと言えるのではないでしょうか。
そして、その意味は、誰かに評価されるためのものではありません。数字で測られるものでも、正解として示されるものでもありません。それは、自分自身の内側で静かに灯る、小さな灯火のようなものではないでしょうか?
2026年も半年を過ぎたこの日に当たり…
この一年、私は何に気付いたのか。
誰に寄り添うことができたのか。
誰の沈黙を聞き逃してしまったのか。
どの怒りを手放し、どの迷いを受け止めることができたのか。
そして、これからどの未来を選び直すのか。
時に立ち止まり、時に戻り、時に乱れ…日々の迷いの渦の中に巻き込まれそうになった時にも…
その問いに、すぐ答えを出す必要はありません。
問いを持ち続けること。
分からなさを抱えたまま、それでも誰かのそばに立とうとすること。
自然の循環の中で、自分もまた生かされている存在であると感じること。
そのような…静かな気付きを感じて頂けましたなら…皆様の心の側にも、きっと…新たな未来の選択肢がそっと寄り添い、訪れる瞬間に出会えるのではないでしょうか?




