より良い未来を形作るためには?

皆様、こんにちは。本日は9/15(火)です。昔の暦では、9月を「長月」と呼びました。
先日、あるご利用者様のご家族様から、前回9/9(水)のブログについて、次のようなお言葉をいただきました。「私には全く頭に入って来なかったんですが……もっと分かりやすく説明していただけますでしょうか?」
この言葉を聞き、私は大切なことに気付きました。前回は、「虚構と現実」「とらえることと、とらわれること」「無字の呼吸」「世代によって答えが違うこと」など、いくつもの話を一度に書いていました。私の中ではつながっていても、読む方には分かりにくかったのだと思います。
そこで今回は、話を一つに絞ります。テーマは、
「大きな問題を、小さく分けて考える」です。
数学の難しい問題では、いきなり答えを出そうとせず、具体例に置き換えたり、大きな問題を場合分けして、小さく分けたりします。時には、どうしても解けない問題をいったん横に置き、部分点を狙いに行く事もあります。
この考え方は、数学だけではなく、介護にも、人間関係にも、そして私たちが今、生きている社会を考える時にも役立つのではないでしょうか。
ご家族様に認知症の症状が現れると、「これからどうなるのか」「一人暮らしを続けられるのか」「施設に入った方がよいのか」「仕事を辞める必要があるのか」「兄弟は協力してくれるのか」「お金はどうするのか」…など、さまざまな不安が一度に押し寄せます。
これらを全部まとめて考えれば、誰でも混乱します。ですから、まず分けてみる。
・今日、一番困っていることは何か
・ご本人が困っていることは何か
・ご家族様が困っていることは何か
・今すぐ対応することは何か
・今日決めなくてもよいことは何か
・自分たちだけで考えることは何か
・誰かに相談した方がよいことは何か
そうすると、「何から始めればよいのか」が少しずつ見えてきます。
例えば、ご本人が自宅にいるのに、「家に帰る」と言うことがあります。ご家族様は、「ここがお父さんの家でしょう」と説明したくなるかもしれません。しかし、ご本人が困っているのは、「ここが自宅であるかどうか」ではない場合があります。「何となく不安だ」「昔の家に戻りたい」「安心できる場所へ行きたい」…など、そんな気持ちが、「家に帰る」という一言になっているのかもしれません。つまり、ご家族様が解こうとしている問題と、ご本人が抱えている問題が違うことがあるのです。
「財布を盗られた」と言われた時も同じです。ご家族様は、「私は盗っていない」という事実を説明したくなります。しかし、ご本人の中には、「財布が見つからない」「置いた場所を思い出せない」「自分自身の記憶が信用できない」「これから生活できるのだろうか」という不安があるのかもしれません。
そこで、「私が盗るわけないでしょう」と否定する前に、「それは心配ですね。一緒に探してみましょうか」という言葉を選ぶこともできます。これは、事実を曲げることではありません。相手の言うことを何でも正しいと認めることでもありません。言葉の奥にある、「この人は、何に困っているのだろう?」という問題を見つけ直すということです。
私は、前回のブログで書いた、「とらえるけれど、とらわれない」とは、こういうことでもあるのではないかと感じております。現実はきちんと見る。しかし、最初に浮かんだ一つの解釈だけに自分を閉じ込めない。
そこで前回のブログで述べた「無字の呼吸」という考え方にもつながります。何か言われた。腹が立った。悲しくなった。すぐに言い返したくなった。その時、一呼吸置く。「無……」。怒ってはいけない、という意味ではありません。怒っている自分自身に気付くための時間です。介護の場面では、親に対する怒りだと思っていたものの中に、疲れ、睡眠不足、兄弟への不満、将来への不安、そして、昔のお父様やお母様が少しずつ変わっていくことへの寂しさ…などが重なっていることがあります。「親が悪い」という一つの問題に見えていても、本当はいくつもの問題が重なっている。だからこそ、分けて考えてみる事が重要なのではないでしょうか?

ここから、少し視点を広げてみたいと思います。私たちは、過去の人々から多くのものを受け取って生きています。そして前回9/9のブログでは、人間は完成された「答え」だけを次の世代へ渡してきたのではなく、むしろ、「問い」を未来へ受け渡してきたのではないか…ということを書きました。
では、過去を生きた人々から、今の私たちはどんな問いを受け取っているのでしょうか。

① 昭和初めから昭和20年代を生き、戦争によって命を失った人々へ
もし、その人たちから…「私たちの苦しみから、あなたたちは何を学びましたか?」と尋ねられたら、私たちは何と答えるのでしょうか?
「戦争は昔の出来事です」とは言えません。2026年の世界にも、戦争があります。国家と国家が対立し、普通に生活していた人たちの家が壊され、家族が離れ離れになり、命を失う人がいます。だから私たちは、「もう大丈夫です」とも言えない。
むしろ、「あなた方の人生を、単なる数字にはしません」…と言うしかないのではないでしょうか。戦争で亡くなった何万人、何十万人という数字の中には、一人一人の生活がありました。家族がいました。夢がありました。帰りたい場所がありました。だから、「国家のためだから」「みんながそうしているから」「仕方がないから」という大きな物語によって、一人の人間の命を見えなくしてはいけないのではないでしょうか?
私たちは、「どうすれば同じことを繰り返さないのか」…という問いを受け取ったのだと感じております。

② 昭和21年から昭和40年を生き、その時代の理不尽さに翻弄された人々へ
戦争が終わり、日本は復興へ進みました。しかし、平和になれば、すべての苦しみが消えるわけではありません。貧困。過重な労働。強い上下関係。男女の役割。「我慢することが美徳」「働けるだけ幸せ」「家庭の問題は家庭の中で解決するもの」…など、そんな常識の中で、声を上げられなかった人もいたのではないでしょうか?その人たちが、「私たちが我慢したことには、果たして、どんな意味があったのでしょうか?」と尋ねたら、何と答えるでしょうか?
私は、「我慢したことが立派だった」だけで終わらせてはいけないと思います。むしろ、「あなた方が耐えなければならなかったことを、次の世代では耐えなくてもよい社会にしたい」と答えるべきなのではないでしょうか?
苦しみに耐えたことを美化するのではなく、その苦しみが、なぜ起きたのかを考える。そして次の人には繰り返させない。それこそが、過去から学ぶということなのだと感じております。

③ 昭和41年から昭和63年を生き、その時代の理不尽な論理に翻弄された人々へ
日本は大きく豊かになりました。家電が家庭に入り、車が普及し、マイホームを持つことが一つの夢になりました。しかしその一方で、「いい学校へ行く」「いい会社へ入る」「出世する」「家を持つ」「結婚する」「人より豊かになる」…など、という新しい物語も強くなりました。そこから外れた人が、「自分は失敗した人間なのではないか」と思ってしまうこともあったのではないでしょうか?
もし、その時代の人々が、「豊かさの先に果たして、何があったのでしょうか?」…と尋ねたら、私たちは、「物をたくさん持つだけでは、人間は必ずしも幸せにはならないことを学びました」…などと答える他ないのではないでしょうか?
会社で出世することだけが成功ではありません。結婚することだけが幸せではありません。家を持つことだけが安心でもありません。昭和の高度成長から私たちが受け取ったのは、経済的な豊かさだけではなく、「そもそも豊かさとは何なのか?」…という問いだったのかもしれません。

④ 平成を生き、その時代の理不尽さに翻弄された人々へ
平成になると、それまで当たり前だと思われていたものが次々と揺らぎます。終身雇用。年功序列。会社に長く勤めれば安心。家を持てば安心。結婚すれば安心。そうした人生モデルが、すべての人に当てはまらなくなっていきました。不況。災害。雇用の変化。インターネットの普及。価値観の多様化。昭和の正解が通用しなくなる一方で、新しい正解もまだ分からない。そんな時代でもありました。
もし平成を悩みながら生きた人々が、「私たちの迷いには、果たしてどんな意味があったのでしょうか?」と尋ねたなら、どのように答えればよろしいのでしょうか?
その時代には…働き方も、家族の形も、幸せの形も、一つではないという考え方が少しずつ広がり、「答えは一つではない」…ということを、社会全体が学び始めた時代だったのではないかと感じております。

⑤ そして令和――私たち自身の時代
では、2026年を生きている私たちはどうでしょうか。令和という時代は、「正解がない時代」…というより、「正解だと思っていたものが、あまりにも早く変わっていく時代」なのかもしれません。働き方。教育。家族。介護。医療。情報。そしてAI。
つい数年前まで、AIは人間から質問されて文章を書くもの、画像を作るものという印象が強かったと思います。しかし現在では、AIが人間から一つの目標を与えられ、その目的のために複数の作業を組み合わせて進める「AIエージェント」が現れています。そして、その便利さと同時に、新しい問題も実際に起こり始めています。
2026年9月、AI「Claude」を開発するAnthropicは、AIの悪用についての新しい報告書を公表しました。そこでは、Claudeがサイバー攻撃、監視活動、詐欺などに悪用された複数の事例が明らかにされています。一部では、AIが単に人間へ方法を説明するだけではなく、偵察、脆弱性の探索、認証情報の取得、データの窃取など、サイバー攻撃の一連の作業をかなり自律的に進める仕組みに利用されていました。Anthropicによれば、人間による操作が少ないまま、複数の標的を並行して攻撃するような事例まで確認されています。もちろんAnthropicは、これらを発見し、関連アカウントを停止し、安全対策を強化したと説明しています。
しかし、ここで考えなければならないことがあります。「AIが暴走したのか?」という問いだけで、この問題を見ることができるのでしょうか。今回報告された多くの事例では、最初に悪意ある目的を持ち、標的を選び、AIへ指示を与えたのは人間でした。つまり、これは遠い未来の、「超知能が人間の制御を離れて暴走する」という問題とは少し違います。すでに存在しているAIを、人間が何のために使うのか。その問題なのではないでしょうか?
包丁は料理にも使えます。人の命を救う手術にも使われます。しかし、人を傷つけることにも使えてしまいます。インターネットもそうでした。世界中の人々をつなぎ、情報を共有し、孤立した人を助ける力を持ちました。一方で、詐欺、誹謗中傷、犯罪、偽情報にも使われました。
AIもまた、同じ問いを私たちへ投げかけ始めているのではないでしょうか?「何ができるのか」だけではなく、「できるからといって、それをしてよいのか」という問いではないでしょうか?
ここでも、先ほどの数学の考え方が必要になります。「AIは危険だ」と一つにまとめるのではなく、問題を分ける。AIそのものの性能の問題。AIを作る企業の責任。利用する人間の責任。法律の問題。教育の問題。個人情報の問題。安全対策の問題。国家間の競争の問題。犯罪に利用する人間の問題。そして、便利さを享受する私たち一人一人の問題。
こうして分けて考えなければ、「AIは素晴らしい」「AIは危険だ」という二つの大きな物語だけに、自分たちが「とらわれて」しまうかもしれません。この事は、前回のブログで円覚寺の横田南嶺管長が述べたお言葉から、例に挙げた事例を確認して頂けましたら納得して頂けるのではないでしょうか?AIを正しく「とらえる」。しかし、AIへの期待にも、AIへの恐怖にも、とらわれない。ここにも、前回のお話と同じものが見えてくるように感じております。

⑥ 2076年――未来の子どもたちから見た2026年
では、ここで50年後へ行ってみましょう。2076年。ある学校の教室です。子どもたちが歴史の教科書を開いています。ページには、「2020年代」と書かれています。新型感染症。戦争。少子高齢化。人口減少。気候問題。SNS。孤独。そして、人工知能の急速な発達。今、私たちが「ニュース」として見ている出来事が、50年後には、「歴史」になっています。
そこで、一人の子どもが手を挙げます。「先生、質問があります」先生が答えます。「何ですか?」子どもは尋ねます。「2026年ごろの人たちは、AIが便利になる一方で、犯罪にも利用できることに気付き始めていたんですよね?」「そうですよ」「個人情報が盗まれたり、AIを使ってサイバー攻撃をしたりする事例も、もう起きていたんですよね?」「そうです」
すると子どもは、もう一つ尋ねます。「では、昔の人たちは、その時に何をしたんですか?」…この問いに、2076年の先生は何と答えるのでしょうか?「当時の人たちは、便利だったので、そのまま使い続けました」でしょうか。「危険性には気付いていましたが、国や企業が何とかしてくれると思っていました」でしょうか。あるいは、「AIの発達を怖がり、すべて禁止しようとしました」でしょうか。それとも、「当時の人たちは、便利さと危険性の両方を知ったうえで、何を人間が決め、何をAIに任せるべきなのかを考え始めました」と答えるのでしょうか?

私には、2076年がどのような世界になっているのか分かりません。AIが今よりはるかに発達しているのか。人間とAIが当たり前のように一緒に働いているのか。あるいは、私たちが想像すらしていない技術へ変わっているのか。それは分かりません。しかし、一つだけ確かなことがあります。2076年の子どもたちが学ぶ「2026年の歴史」を作っているのは、今を生きている私たちだということです。

私たちは、過去に何と言えるのでしょうか?
ここまで考えてくると、最初の問いへ戻ります。
①昭和初めから昭和20年代を生き、戦争によって亡くなった人々に、私たちは何と言えるのでしょうか。
②昭和21年から昭和40年を生き、その時代の理不尽さに苦しんだ人々に、何と言えるのでしょうか。
③昭和41年から昭和63年を生き、豊かさの一方で、その時代の価値観に苦しんだ人々に、何と言えるのでしょうか。
④平成を生き、これまでの常識が崩れていく中で迷った人々に、何と言えるのでしょうか。
⑤そして令和を生き、昨日まで当たり前だった常識が通用しなくなり、AIをはじめとした新しい技術と向き合いながら悩む人々に、何と言えるのでしょうか。
私たちが言えるのは、「今の私たちは、あなたたちより正しい答えを知っています」という言葉ではないと感じております。そうではなく、「あなた方が残した苦しみや失敗を、次の時代で少しでも繰り返さないよう、私たちは考え続けます」という言葉なのではないでしょうか?
そして、未来へ向かっては、「これが正解だから、そのまま使いなさい」と渡すモノでもない。「私たちは、ここまで考えました」「ここまでは変えることができました」「でも、ここから先は分かりませんでした」「あなたたちの時代に合った答えを、また考えてください」…などと問いを渡す。
それが、過去から未来へ生きる人間の役割なのではないかと感じております。

そして最後に…今回も、ご利用者様の介護で日夜、一生懸命、汗水流されているご家族の皆様へ二つの問いを残したいと思います。
一つ目。あなたが今「問題だ」と思っていることと、ご本人様が「困っていること」は、本当に同じでしょうか?
もう一つ。今抱えている大きな問題を小さく分けるとしたら、今日考えるべき最初の一問は何でしょうか?
そして今回は、もう一つだけ。少し大きな問いを加えたいと思います。2076年を生きる子どもたちから、「2026年を生きた皆さんは、未来のために何を選んだのですか?」と尋ねられたら、あなたは何と答えたいでしょうか。AIを使うのか、使わないのか。という問いだけではありません。AIを、何のために使うのか。誰のために使うのか。どこまで任せるのか。どこから先は人間が責任を負うのか。便利さと引き換えに、何を手放してはいけないのか。そして、AIだけではありません。介護も、働き方も、家族も、社会も同じです。「できるか、できないか」だけではなく、「私たちは、結局どうしたいのか」…

ここから先は、私にも完成された答えはありません。だからこそ、一緒に考えてみる事が重要なのではないでしょうか?すぐに答えが出なくてもよい。一呼吸。「無……」。自分が今まで正しいと思ってきたことを、ほんの少しだけ横へ置いてみる。便利だから正しい。昔からそうだから正しい。みんながやっているから正しい。AIがそう答えたから正しい。専門家が言ったから正しい。そのどれにも、完全に「とらわれない」。そして、自分自身で考える。誰かと話す。違う世代の人の話を聞く。自分と違う考えにも耳を傾ける。必要なら、もう一度問いを小さく分ける。そうして選んだ一つ一つの小さな選択が、やがて、「2026年という時代」になるのだと感じております。
今、この文章を読んでいる私たちは、まだ歴史の教科書の中にはいません。だからこそ、まだ選ぶことができます。まだ考えることができます。まだ問い直すことができます。
50年後。2076年のある教室で、一人の子どもが教科書から顔を上げて、先生に尋ねます。「2026年の人たちは、未来がどうなるか分からなかったんですよね?」先生は答えます。「そうですよ」「それでも、未来のことを考えたんですか?」その時、先生がどんな答えを返すのか。その答えを、私たちはまだ知りません。なぜなら、その続きを書いているのは――今を生きている、私たち自身なのですから…