皆様、こんにちは。本日は9/23(水)。
前回のブログで…介護で重要な考え方として、数学的な『場合分け』の考え方を一例として、挙げました。ところが、ご家族様の中には…やはり、とても頭の良い方がいらっしゃいまして…『場合分けが、とても良い考え方であるというのは理解できましたが、それだけでしょうか?そもそも数学的な考え方というのは…それ以外にもあると思います。私は…それ以外にも様々な似たような考え方として、様々な介護に悩む方への参考になる話があるのでは?思いますが…』と仰る方がおりました。私も、それまでは詳しくは考えた事はなかったのですが…よくよく考えてみると…確かに、様々な事例が考えられるのでは…と思い、今回は前回以外の数学的な考えから見た、介護事例を考えて…更に、その先にある人としての本当の価値についても考察を深めたいと思いました。
例えば…認知症のある方と接していると、ときどき私たちは戸惑う事が多々ございます。
夕方になると、「家に帰らなくてはいけない」…と何度も玄関へ向かう。食事を終えたばかりなのに、「まだご飯を食べていない」等と言う。昨日まで喜んでいた入浴を、今日は強く拒む。穏やかだった人が、ある瞬間から突然怒り出す。
そんな出来事を前にすると、私たちはつい、「認知症だから仕方がない」という一言で説明したくなることがあります。けれど、本当にそれだけなのでしょうか。
ここで少し意外なものを持ち込んでみます。それが「数学」です。しかも、今回は前回以外の考え方です。もちろん、三角関数のsinやcosを本人に教えれば認知症が改善するとか、微分積分を解けば物忘れが治る、という意味ではありません。数学の本当の面白さは、一見ばらばらに見える出来事の中から、規則性を探すこと。変化を捉えること。一回の出来事だけで結論を出さず、時間の中で考えること。そして、見えている現象の向こう側に、何が隠れているのかを考えること…にあるのではと感じております。
そのような「数学の眼」で認知症ケアを眺めてみると、いつもとは少し違った景色が見えてきます。
1 《sin・cos…人の一日にも「波」がある》
sin(サイン)やcos(コサイン)は、学校では三角形の角度を求めるものとして習います。しかしグラフにすると、上がって、下がって、そしてまた上がる「波」を描きます。つまり三角関数は、周期を考える数学でもあります。
この点、私たちの生活にも周期があります。朝になれば目を覚まし、夜になれば眠くなる。食事をすれば満腹になり、時間が経てば空腹になる。活動すれば疲れ、休めば回復する。人間の身体も心も、一直線には進みません。
認知症のある方も同じです。たとえば、ある女性が毎日午後4時ごろになると、「もう帰らないと。子どもたちの夕飯を作らなくちゃ」と言い始めたとします。午前10時には言わない。昼食直後にも言わない。しかし夕方になると繰り返す。これを単に、「自宅だということが分からなくなった」「昔と現在を混同している」と考えることもできます。
けれど、数学的に考えるなら、もう一つの問いが生まれます。なぜ、いつも夕方なのだろう?という問いです。そこには一日の「波」があるのかもしれません。外が暗くなる。職員が夕食準備を始める。人の出入りが増える。そして何より、その方は何十年もの間、夕方になれば家族のために夕食を作っていたのかもしれません。
すると、「帰らなくてはいけない」という言葉は、単なる記憶の誤りではなく、長い人生のリズムが、夕暮れという刺激によって再び表面に出てきたものとかんがえられるのではないでしょうか?
ここで必要なのが「気付き」です。「また帰宅願望が始まった」…ではなく、「なぜ、この時間なのだろう?」と考える。そして次に必要なのが「寄り添い」です。「ここがあなたの家ですよ」と現実を訂正するだけではなく、「夕方になると、ご家族のことが気になりますか?」「毎日、ご家族の夕飯を作っていらしたのですか?」等と、その人が立っている世界へ少し近づいてみる。波そのものを消そうとするのではなく、波の形を知りながら、その人と一緒に舟を動かす。そんな介護もあるのではないでしょうか?
2 《tan…人は本当に「突然」怒るのだろうか》
三角関数のtan(タンジェント)のグラフには、面白い性質があります。しばらくは比較的緩やかに変化していたものが、ある地点に近づくと、急激に大きくなる領域があります。
これを介護の世界に置き換えてみます。朝から少し眠そうだった。朝食を残した。水分摂取量が少なかった。排便が数日なかった。いつもより周囲が騒がしかった。補聴器が少しずれていた。本人は何度も同じ質問をしていた。一つ一つなら、それほど大きな問題には見えないかもしれません。ところが午後3時になり、突然、「もう帰る!」と大声を出した。
私たちは、「急に怒った」と思います。しかし、本当に「急に」だったのでしょうか。睡眠不足。空腹。喉の渇き。便秘。聞こえにくさ。騒音。不安。…等の小さな負荷が一つずつ積み重なり、あるところで本人が耐えられる境界を越えたのかもしれません。
つまり、私たちが見た「大声」は原因ではなく、積み重なったものが最後に表面へ現れた瞬間だった可能性があります。
認知症に伴う興奮や攻撃性などが見られる場合も、行動だけを取り除こうとするのではなく、身体的不調、痛み、せん妄、環境、コミュニケーションなど背景となる要因を調べることが重要だと言われております。
数学のtanが教えてくれるのは、「最後の一点だけを見るな」…ということなのではないでしょうか?
3 《数学的帰納法――「一度そうだった」を「いつもそうだ」にしない》
数学的帰納法では、ある命題について最初の場合を確かめ、ある段階で成り立つなら次でも成り立つことを示すことで、広い範囲について成立することを証明します。
もちろん、人間について数学のような完全な証明はできません。だからこそ、介護では逆に重要な教訓があると感じます。一回の出来事を、その人全体の性質にしてしまわないこと。
たとえば、「この人は入浴拒否がある」と言われている方がいたとします。月曜日、拒否した。水曜日も拒否した。金曜日にも拒否した。すると、「やっぱり、お風呂嫌いなんだ」等となりやすい。
しかし条件をよく見ると、月曜日は昼寝の直後だった。水曜日は初めて会う職員だった。金曜日は脱衣所が寒かった。翌週、顔なじみの職員が、「寒いですね。少し温まりませんか?」と声をかけると、「そうね」と言って浴室へ向かった。
そうなると、問題は「入浴」だけではありません。誘われる時間だったのか。声のかけ方だったのか。室温だったのか。裸になることへの不安だったのか。知らない人に身体を触られることだったのか。一つの結果から人間を決めつけず、条件を変えながらもう一度見る。これも「気付き」の一つではないでしょうか?
4 《微分――「この人はどういう人か」より「今、何が変わったか」》
微分を非常に簡単に言えば…ある瞬間に、どのくらい変化しているかを見る数学です。
車で考えると分かりやすいでしょう。100キロ走ったというのは「距離」です。しかし、「今、時速何キロで走っているか」を見るのが微分的な発想です。介護でも同じように考えられるのではないでしょうか?「この人は怒りっぽい」…ではなく、いつから表情が変わったのか。「この人は認知症が重い」…ではなく、昨日と今日で何が変わったのか。午前10時には笑っていた。10時30分から返事が短くなった。10時45分には眉間にしわが寄った。11時には何度も立ち上がった。11時15分、「もういい!」と怒った。
ここで「怒った」という一点だけを見るのではありません。10時30分ごろ、何が起こったのか。痛みが出たのか。便意があったのか。室温が上がったのか。補聴器が外れたのか。人が増えたのか。薬の影響なのか。こうした「変化の傾き」に気付くことが大切なのではないかと感じます。
そして、急激な変化には特に注意しなければなりません。昨日まで普通に話していた人が突然会話できなくなった。急に眠り込むようになった。突然歩けなくなった。幻覚や混乱が急に強くなった。このような場合、「認知症が進行した」と決めつけるのではなく、せん妄、感染症、脱水、薬剤の影響、脳血管障害など別の医学的原因も考える必要があります。微分的な「気付き」は、ときに命を守ることにもつながります。
5 《積分――今日の一言の向こうに、何十年という人生がある》
積分は、小さな量を積み重ねて全体を見る数学です。介護の世界では、この考え方が特に重要です。80歳の男性が施設で毎朝、「仕事に行く」と言って玄関へ向かったとします。現在だけを見れば、「施設に入居していることを忘れている」という話になります。
しかし、その方が20歳から65歳まで大工として働いていたとしましょう。45年間です。仮に年間250日働いたなら、250日×45年=11,250日。一万日を超える朝、起きて、着替え、道具を持ち、仕事へ出掛けたことになります。一方、施設に入って半年なら、そこで迎えた朝は約180回です。11,250回と180回。どちらが身体の奥に深く残っていても不思議ではないでしょう。
すると、「仕事なんてありませんよ」と訂正するだけではなく、「今日はどんな現場でしたか?」「一番よく使った道具は何でしたか?」「若い職人さんには、最初に何を教えましたか?」…等と聞くことができるのではないでしょうか?その瞬間、「仕事へ行こうとする認知症の人」から、何十年も仕事をしてきた一人の職人へと、私たちの見方が変わります。
それこそ、人生を「積分する」ということなのかもしれません。
6 《人としての価値を数学的に説明できない理由とは?》
しかし、数学だけでは人間を説明できません。人間には、数学では説明しきれない部分があるからです。
例えば…昨日は歌を聴いて笑っていた。今日、同じ歌を流したら、「うるさい」と言った。昨日は娘さんに会って喜んだ。今日は娘さんを見ても、「知らない人だ」と言った。昨日成功した声掛けが、今日は通じない。
条件を記録して、時間を測り、睡眠、水分、食事、排泄、環境を調べても、それでも説明できない日があります。人間は機械ではありません。
更に、もう一つ大きな問題があります。人間は一人だけでは生きていない…ということです。
7 《一人の人間を考えるとき、本当に「本人だけ」を見ればよいのか》
たとえば、先ほどの元大工の男性を考えてみます。
施設で一人、「仕事へ行かなければ」と言っている。そこで職員が、「今日は仕事はありません」と言えば、話は終わるかもしれません。
しかし別の日、地域交流会で子どもたちが木工工作をしていたとします。職員が、その男性に聞きます。「この釘、どうやったら真っすぐ打てますか?」男性が答えます。「最初から力いっぱい打っちゃ駄目だ。最初は軽く打つんだよ」子どもが、「こう?」と聞く。男性が、「そうそう。うまいじゃないか」と笑う。
ここで何が起きたのでしょう。記憶力検査の点数は変わっていないかもしれません。認知症そのものが治ったわけでもありません。しかし、「介護される人」だったその方が、その瞬間、「教える人」になっています。そして子どもから見れば、「認知症のおじいさん」ではありません。木工を知っている先生なのです。
社会参加には、こういう力があります。人と会う。会話をする。誰かに尋ねられる。誰かに教える。一緒に笑う。失敗する。また挑戦する。こうしたやり取りの一つ一つは、記憶、言語、注意、感情、身体活動など複数の働きを同時に使う機会になります。
また、高齢者について、社会参加やボランティアなどの高い社会的関与と、その後の良好な認知機能との関連を示す研究もございます。一方で、こうした研究の多くでは「社会参加そのものが認知症を防いだ」と単純な因果関係まで断定できるわけではなく、社会的に活動できるほど健康だったという逆方向の関係も考えなければならないと指摘されております。
それでも、社会的孤立や孤独が身体・精神・認知面の健康と関連することについては、多くの研究が積み重なっています。
故に、社会参加とは、「認知症に効く薬」なのではなく、その人がもう一度、他者との関係の中に位置を持つ機会だと考える方がよいのではないかと感じております。
8 《「人の価値が高まる」とは、どういう意味だろう?》
ここで非常に慎重に考えたいことがあります。社会参加すると「その人の価値が高まる」と言うと、逆に、社会参加できない人には価値がないのか。寝たきりの人はどうなのか。言葉を話せない人はどうなのか。重度の認知症の人はどうなのか。という問題が生まれるからです。
もちろん、そうではありません。人間そのものの尊厳、つまり、「その人がそこに存在していることの価値」は、仕事ができるか、話せるか、歩けるか、誰かの役に立てるかによって上下するものではないでしょう。
更に…人にはもう一つの側面があります。それは、誰かとの関係の中で生まれる価値です。誰かに名前を呼ばれる。「来てくれてありがとう」と言われる。「教えてください」と頼まれる。自分の話を聞いてもらう。誰かを笑わせる。誰かに心配してもらう。そして、自分も誰かを心配する。このような関係の中で、「自分はまだ誰かとつながっている」「自分にも役割がある」…等という感覚が生まれることがあります。
人の価値そのものが増減するのではありません。けれど、本人が自分自身の価値を感じる機会や、周囲がその人の新しい側面を発見する機会は増やすことができる。これを、あえて「表と裏」という言葉で考えるなら、表には、「できること」「社会的役割」「誰かとの交流」…等が見える。裏側には、「その人が生きてきた歴史」「誰かを思う心」「本人にも言葉にできない感情」…等がある。
表だけでも人間ではない。裏だけでも人間ではない。その両方が行き来することで、一人の人間の姿が、少しずつ立体的になっていくのではないでしょうか?
9
前回と前々回でのブログで、時代の流れに即して、最終的に未来の生徒と先生との言葉のやり取りを挙げています。ここでもその方法で、皆様方に問い掛けたいと思います。
時代が流れました。場所は、少し未来の学校です。先生が黒板に書きます。
「認知症と数学」生徒たちは不思議そうな顔をしています。一人の生徒が手を挙げました。「先生。」「はい。」「今日の授業では、認知症の人をsinとか微分とか積分で考えましたよね。」「そうですね。」「だったら、その人の行動を全部記録して、AIに計算させればいいんじゃないですか?」
教室が少し静かになります。
先生は答えます。「将来、それに近いことは今よりずっとできるかもしれません。」睡眠。歩行。脈拍。食事量。表情。声。会話。部屋の温度。周囲の騒音。それらをセンサーやAIが分析し、「この方は夕方に不安が強くなりやすい」「今日は普段より混乱が強くなる可能性があります」…等と知らせてくれる。そんな時代は十分考えられます。
すると別の生徒が手を挙げました。「じゃあ先生、人間よりAIの方が、その人のことを分かるようになるんですか?」先生は少し考えます。「“分かる”という言葉を、どういう意味で使うかによります。」「どういうことですか?」「AIは、一万回の記録から規則性を見つけるかもしれない。でも――」
先生は黒板に、11,250…と書きました。「これは何ですか?」「ある人が45年間、年間250日働いたと仮定したときの、おおよその勤務日数です。」
先生は続けます。「AIは、この11,250回をデータとして扱うことができるでしょう。でも、その人が初めて親方に褒められた日のうれしさまで、同じように計算できるでしょうか。」
誰も答えません。
10
少しして、後ろの席の生徒が手を挙げました。「先生。」「はい。」「さっき、人間は一人では生きられないから社会参加が大切だと言いましたよね。」「そうですね。」「じゃあ、社会参加できない人はどうするんですか?」
先生は黒板を見るのをやめました。生徒は続けます。「寝たきりの人もいます。」「はい。」「話せない人もいます。」「いますね。」「家から出られない人もいます。」「います。」「じゃあ、その人たちは社会参加できないから、価値が低くなってしまうんですか?」
しばらく先生は答えませんでした。そして言いました。「とても大事な質問ですね。」先生は黒板に大きく…価値…と書きました。その下に二本の線を引きます。一つには、『存在そのものの価値』。もう一つには、『関係の中で見えてくる価値』…と書きました。
「社会参加できるから、人間として価値が高くなるわけではありません。」そして先生は続けます。「でもね――」「はい。」「社会参加という言葉を、“外へ出掛けること”だけだと思わなくてもいいのかもしれません。」ベッドで寝たままでも、誰かが名前を呼ぶ。手を握る。好きだった音楽を一緒に聴く。孫が今日あった出来事を話す。本人が言葉を返さなくても、「また明日来るね」と伝える。それも、人と人との関係です。
「つまり先生――」生徒が言いました。「社会参加って、社会の中へ本人を連れ出すことだけじゃなくて……」
先生が微笑みます。「そう。」社会の方から、その人のところへ行くこともできる。
教室が静かになりました。
11
すると、もう一人の生徒が尋ねました。「先生。」「はい。」「数学では、答えがありますよね。」「多くの場合はあります。」「じゃあ、今日の話の答えは何なんですか?」
先生は振り返ります。
黒板には…
sin
cos
tan
帰納法
微分
積分
そして、
価値
という文字が残っています。
先生は消そうとしていた黒板消しを置きました。
「分かりません。」生徒たちは驚きます。「先生なのに?」「先生だから、分からないと言うことも必要なんです。」「でも授業ですよ?」「ええ。」
先生は窓の外を見ました。そして言います。「数学は、私たちに正しい答えを出す方法を教えてくれます。」
少し間を置いて、「でも、人間について考えるとき、もっと大切なのは――」
そこで先生は言葉を止めました。
チャイムが鳴りました。生徒たちは教科書を閉じます。一人の生徒が黒板を振り返りました。
そこには先生が最後に書いた一行だけが残っていました。
「あなたは、その人の何を見ていますか?」
認知症という病名でしょうか。できなくなったことでしょうか。今日の行動でしょうか。昨日からの変化でしょうか。一日の波でしょうか。何十年という人生でしょうか。その人が誰かと結んできた関係でしょうか。それとも、まだ私たちが気付いていない何かでしょうか。
数学は、その問いを整理することはできます。規則性を見つけ、変化を捉え、時間を積み重ね、仮説を立てることができます。
けれど最後の最後に、数式の外側に残るものがあります。その人の声。その人の沈黙。その人が歩んできた時間。そして、その人と私たちとの間に生まれる関係です。
未来の生徒は、教室を出る直前、もう一度黒板を見ました。そして先生に尋ねました。「先生。」「何ですか?」「もし認知症になったのが自分だったら……先生は、何を見てほしいですか?」
先生は答えようとしました。けれど――今度は、答えませんでした。
窓の外では、誰かと誰かが話しながら歩いていました。その会話の内容までは、教室からは聞こえません。ただ、二人が時々立ち止まり、そしてまた、一緒に歩き始める姿だけが見えていました。数学なら、その歩く速さを測ることができるでしょう。歩幅も測れる。立ち止まった時間も計算できる。二人の距離も求められる。
けれど、…なぜ二人が一緒に歩いているのか。そこから先は、数式だけでは答えられないのかもしれません。
では――
あなたなら、その続きを、どのように考えますか。




